マリインスキー・バレエ ミュンヘン公演 「ジゼル」(3/30)
キャスト

ジゼル: ウリヤーナ・ロパートキナ
アルブレヒト: イゴール・コルプ

ヒラリオン: イスロム・バイムラードフ
バチルド: エレーナ・バジェーノワ
クールラント公: ウラジーミル・ポノマレフ
ペザントpdd: ヴァレリア・マルティヌク、ウラジーミル・シクリャローフ
ミルタ: エカテリーナ・コンダウーロワ
モイナ: タチアナ・トカチェンコ
ズルメ: クセニア・オストレイコフスカヤ

指揮: アレクサンドル・ポリャニチコ
演奏: マリインスキー管
Prinzregententheaterにて


“Mind over Matter”

中世ライン地方の、暗く神秘的な森の中。夜の闇が重く垂れこめて、唯一の明かりといえば、朧月からわずかに差し込む弱々しい光だけ。静まり返った空間は、現世とそれ以外の世界とのボーダーが曖昧で、二つがいとも簡単に交差しかねない・危うい気配に満ち満ちている。

死して既にこの世のものでなくなったジゼルの魂が、仮の肉体を纏って墓から立ち上る。ウィリの女王ミルタに一礼して、恋人に恨みをもちながら世を去った悲しい乙女達の仲間入りをする、儀式的な場面。一陣の風のようにくるくると舞うジゼルは、人のぬくもりが感じられる場所から、はっきりと「あちら側」の世界に足を踏み入れたことを確信させる。

この登場シーンから既に、ロパートキナのジゼルの特異性は際立っていた。”どうやらこの新米ウィリが長くこの集団に属すことはないだろう・・・”と、見る者に瞬時に思わせるような隔絶性に満ちているのだ。第一に、現世に半分心を残し、<気のすむまで好きな踊りを踊る>という未練を夜の帳が下りたときだけ叶えられるというウエットな存在(ウィリ)に、彼女は全く見えない。また、ミルタの指示に従って森に紛れ込んだ若い男を死に至らしめる、残酷で一種天衣無縫なウィリの表情も、持っていない。実際このジゼルには、自分の明確な意思や感情など、まったく存在していないかのようだ。

そこにあるのは、最後の旅への途上にあるジゼルの魂が、束の間戻ってきた、その姿。 そこにわずかに残っていて我々に「姿・形」として見えるのは、本当にそれだけだ。行ってしまう前に、もう一度だけ人間の肉体を纏って現れたその姿は、闇の中に消え入りそうなほどか細く儚げで、自らに課した使命(恋人を守る)をまっとうした後は、おそらくその仮の肉体すら空気中に同化してしまい・魂も二度と戻ってはこないだろう、と思わせる。(だからこそ一層、夜明けが訪れアルブレヒトの命が救われた事を知って安堵し、ほんの一瞬だけ生身の人間の表情に戻るジゼルが、感動的だった。一幕の村娘の時よりもより柔らかで女性的な表情を見せたのだ・・・)

ダンサーが肉体を極限まで駆使して、限界を超えたときに超自然の存在をこの世(舞台)に現出せしめてしまう・・・という、(おそらく)バレエ芸術にしかなしえない奇跡。それを目にする機会はそうそう多くはないけれど、だからこそ、その奇跡を求めて我々バレトマンは東奔西走する。そして、その種の舞台に遭遇する確率が比較的高いのがロパートキナが踊る時であり、この種のまさに「人間であって人間でない」存在を表現している時だ。(彼女の人気が、殆どカルト的といっていい類のものであるのは、偶然ではない!)

この夜の舞台で、それが起きたのは二幕のgpdd。弦が低い声で語りはじめると、ジゼルの、空気と同化しそうなほど繊細な腕が宙にふわりと浮かび、そのつま先があくまで柔らかにかそけき弧を描く。かつてこの場面で、これほど自然でスムーズな動きを見たことがあっただろうか・・・動きを内にためこみ・抑制するということにかけて、やはりこの人は並大抵でない力を持っている(アダージョの天才!)。あまりにも全てが一つの穏やかな流れの中で起きているので、人間の意志や感情などが介在する余地がないほど完全なものに見えて・・・ここでのロパートキナはまるで何かに踊らされているように見えた。見る者にはなんら努力を強いず(ということは踊っている人間が血を流しているということ)、一時この世ではない・非現実の空間に引き摺りこんでくれた。

この音楽は、この振付は、こういうことだったのか・・・と、過去何度目にしたかわからない踊りの、原型を見ているような気さえしてくる。(スラヴの民間伝承に想をえてウィリをテーマに詩作をものしたハイネ。その詩にインスピレーションをえてバレエ・ジゼルの構想を描いたゴーティエ。作曲者のアダン、原振付のコラリ/ペローに、改訂振付を施したプティパ。よくぞ よくぞ、このバレエを世に送りだしてくれたものだ・・・という感慨まで沸いてくる。)

殆ど放心状態で舞台を見つめながら、一方でなぜこんなことが可能なのだろう?と、問わずにいられなくなる。ちょっと尋常でないバレエの舞台を見るということは、都度神秘体験をしているに等しいのだから、合理的な説明などつけようがない・・・と開き直ってしまえばいいのだが、一心に踊りに専念し、その集中力を客席にまで浸透させてしまうロパートキナの姿に、かつて演劇人・野田秀樹氏が語っていた言葉をふと思い出した。家に戻ってスクラップ帳を開いてみたら、幸い新聞記事のコピーを取ってあったので、ここに抜粋で紹介します。


”役者の寄り目”
『(略)私の芝居は、肉体を駆使する。そしてほとんどが長期公演である。だから一日、昼夜二回公演がある時はくたくたである。(中略)昼夜公演の日は、すでに昼でくたくただ。疲れている。ところがその状態でのぞんだ夜の公演の時に「疲れ」が、もうひとつのツカレに変わることがある。
 それが「憑かれ」である。(中略)「憑かれ」は、集中力の極限状態である。憑依状態になった役者というのは、日常では経験のできないところを浮遊する。コトバにするのは、至極難しいのだが「狂人になった自分を冷静な自分が見つめている」といったところだろうか。これは、おそらく、ハヤリのヤバイ宗教の超常体験に近いものがあると思う。
 宗教と演劇は双子だ。
 ヤバイ宗教が犯している間違いは、その憑依現象が、なにか霊力みたいなもの、宇宙の力だとか教祖の力だとか、兎に角、自分の体の外からやってくる力のおかげだと信じさせることだ。
 だが、「憑依」は、外からやってくるのではない。自らの肉体の内からでてくる。その化けの皮を剥げば、ただの「集中力」なのだ。あけすけに言えば「寄り目」なのだ。』 (日経 2000年5月28日)



この夜のロパートキナのジゼル・二幕に起きたことは、ここで野田氏が語っている「憑依」と同じものであったとは言えないし、本当に人間の集中力だけでこういうことが可能なのか?と、それこそ「体の外からやってくる力」の可能性についても好奇心がかきたてられたりするのだけど。それでも、舞台人である氏がご自身の経験から発露されている言葉として示唆に富んでいる・・・と思い、引用させて頂きました。(ロパートキナの「奇跡」と、何か共通するものがあるかもしれない・・・)

ええと、思いっきりそれた話を、ムリやり元に戻します。

この夜のアルブレヒト、コルプとのパートナーシップについて。お互いを尊敬し・信頼し合っている大人同士の組み合わせ、という趣で、好感が持てました。コルプは一幕から表現が大きく踊りもダイナミックで、見るからに若々しい恋人。一幕のロパートキナが繊細で病弱そうで、かつ浮世離れした存在だったので(少々表情が硬かったかも?)熱愛中の恋人達には見えなかった。どちらかというと、恋に臆病なジゼルとそんな彼女をとても大切に扱う(恋心からだけでなく騎士としての自然な振る舞いとして)アルブレヒト、という感じ。

とても情熱的な若者、でも立ち居振る舞いは堂々としてスマートで(衣装もボディス部分がよくあるアースカラー・茶系ではなくて淡いブルー系でエレガント)、婚約者バチルドが登場して窮地に陥るシーンも、やぁちょっとした出来心でね・・・と一瞬遊び人の顔を見せ、動じることなく彼女の手に口づける。ただ、そこにジゼルが割って入り、二人の誓った愛を問いただされると、その後はもう彼女と目を合わせることができず、どっと後悔の念に襲われ石のようにその場に立ち尽くす。(ここでのロパートキナは目を伏せながら、控えめなアクション。)正気を失い、息絶えるジゼル。その姿に、前後の見境なくアルブレヒトがヒラリオンに食ってかかり切りつけようとするシーン、ここは凄い迫力だった!徐々に事の重大さを悟り、その場から逃げることしかできないアルブレヒト(ここでは、苦渋にみちた表情)。

二幕で面白かったのは、アルブレヒトがジゼルの墓を訪れたシーンでの最初のpddの前後だったか?、踊り始める前にしばしジゼルへの思いを巡らしているかのようなアドリブの?演技を入れていたこと。これはあまり見かけない趣向ではないかと思うのだけど、なかなかよかった。最後、ジゼルを永久に失ったことを知ったアルブレヒトが悲嘆する場面では、ジゼルの墓に自分の供えた百合とジゼルの残していった白い花をすべて腕に掻き抱いたかと思うと、それを天に降らせて嘆き悲しむ・・・・という、これも珍しい演技を見せた。肝心の踊りの方も、勿論充実していました・・・この人特有の、基本はノーブルなライン・そこに猫科の柔らかさとしなやかさが同居しているような個性的なダンスを見せてもらって、大満足。(ただ、実は私的にコルプに関して何よりも素晴らしいと思ったのは、ロパートキナをこれほど強くインスパイアしてくれた、ということなのですが。古典バレエは、あくまで主役を踊るバレリーナのもの、という強固で偏屈な信条を持っている人間にとっては、男性舞踊手の第一の仕事は主役のバレリーナを最良の状態で踊らせることにある、と思っていて、それでもジゼルのようなバレエでは、主役ペアの間に愛がなければそもそも作品が成り立たない。<おそらく>ロパートキナはその点とても正直な人だと思うので、彼女と踊ってくれて本当に有難う!という気持ちなのです。)

バイムラードフのヒラリオンは、この人にしてはやや一面的で深みの感じられない演技で、残念だった。(キャスト・シートを信じるならば、今回の公演でヒラリオンは毎回<3回とも>この人が踊ったようで・・・そういう心ないキャスティングが招いた結果だとしたら悲しいことですが・・・。) 背がすらりと高く・ゴージャスな美女のコンダウーロワは、すっきりとモダンなミルタ。テクニックは素晴らしいしハンサム・ウーマンとでもいうべきか?何しろカッコいいミルタで、その分ロマンティック・バレエの香りは漂ってこない・・・私自身の好みとしては、やや世俗的すぎ。ドゥ・ウィリのうちタチアナ・トカチェンコの軽やかで丁寧な踊りはやや意外感があって嬉しい驚きだった。コール・ドは前回(といっても10年前!)このバレエ団のジゼル二幕を見たあとに数日間身も心もフワフワと浮遊するような感覚に襲われた・あの時のインパクトはなかったけれど、最近目にした二幕のコール・ドの中では、まぁもっとも美しい集団だったとはいえるかな・・・。

なにしろ10年ぶりに見るマリインスキーのジゼルだったので、この間見る機会が圧倒的に多かったロイヤルとパリオペのジゼルと見比べたりしていたんだけれど、一つ気になった点が・・・。ロイヤルやパリオペだと、一幕で踊りに興じてばかりいるジゼルを案じた母・ベルタがジゼルとその友人たちにウィリ伝説を話してきかせるマイム・シーンがあるのだけど、マリインスキー版は、ここがほとんどカットされていた!一幕と二幕で現世とあの世・二つの世界をはっきり分けて描いているこの作品で、このベルタのマイム・シーンは、現世の中にあの世の要素が混在してくるモーメントとして大きな意味を持っていると思うので、この部分が削られているのはかなりの損失ではないか?と感じた。
2007-04-10 07:26 | マリインスキー・バレエ | Comment(9)
Comment
Naoko Sさん、こんなに長いレポありがとうございます!

職場だと、ウルウルしてしまいそうなので、今晩家でじっくり読ませていただきますね。
KATIA 2007/04/10(火) 08:58:39) 編集

Naoko Sさん
どうもありがとう!
どうだったかとても知りたかったので嬉しいです。
やはりマリインカのとは趣きが違っていたようですが
それはそれで見たかったわ!
思うにお墓のせり上がりの有無、というのは
色んな影響を及ぼすのかもしれない、と。
私はウリヤーナがお墓が閉じる最後の最後まで
コルプを見上げていたシーンを忘れることができません。

ヒラリオンはせめて1回はプハチョフで見ていただきたかった。
とっても素晴らしいんですよ。
足のラインの美しさといったら!
矢羽 2007/04/10(火) 19:47:44) 編集

Naoko Sさん、今読み終わりました。
読み応え、たっぷりでした!
そして益々、ロパートキナ&コルプの「ジゼル」が見たくなりました。特に第2幕のGPDD、あのチェロのソロから始まるアダージオの中のロパートキナが目に浮かぶようです。

>かつてこの場面で、これほど自然でスムーズな動きを見たことがあっただろうか・・・動きを内にためこみ・抑制するということにかけて、やはりこの人は並大抵でない力を持っている(アダージョの天才!)。

というところに激しく同意します。この域に達することの出来るダンサーは本当に稀有な存在だと思います。この点で、彼女は現在活躍するダンサーの誰にも真似の出来ないレベルにいます。だから、彼女がインスパイアされた時のアダージオはまさに宝石のように輝くのでしょう。「パヴロヴァとチェケッティ」「シンフォーニー・イン・C」「白鳥の湖」「ダイヤモンド」…。

それでも、矢羽さんがマリインスキー劇場でご覧になった同キャストの「ジゼル」とは若干印象が違うようで、本当に舞台は生き物ですね。

モスクワで行われる音楽祭のバランシン・プロでは、何を踊ってくれるんでしょう。早く知りたいな。
KATIA 2007/04/11(水) 00:30:44) 編集


矢羽さん やっぱり詳細レポというのは書けませんで・・・くだくだしいだけの超私的感想文にお付き合い頂き、有難うございました~。

>>思うにお墓のせり上がりの有無、というのは
色んな影響を及ぼすのかもしれない、と。
私はウリヤーナがお墓が閉じる最後の最後まで
コルプを見上げていたシーンを忘れることができません。

なるほど~。本拠地で使っているセットと微妙に違うということが、確かに影響を及ぼしている部分があったかもしれませんねー。次は本拠地版で見てみたいわ。

>>プハチョフ

何故この方連れてきてくれなかったのかしら?バイムラードフは気の毒でしたよ・・・三人の違うジゼルを相手にフラれつづけなきゃいけないなんて!(ヒドすぎる~~)


KATIAさん お付き合い頂き有難うございました。アダージョを踊るロパートキナは、時を止めてしまいますね。今回つくづくそれを感じました。モスクワのイースター・フェスティバルも気になるのですが、私はともかくできるだけ早く・またロパートキナのジゼルを見たい・・・たとえ何回見ても、絶対に飽きることはない!と、確信しております(笑)。
Naoko S 2007/04/11(水) 08:18:11) 編集

Naoko様

ミュンヘンのジゼル、期待にたがわず、素晴らしいものだったようですね・・・。
タメ息をつきつつ耽読致しました。

>弦が低い声で語りはじめると、ジゼルの、空気と同化しそうなほど繊細な腕が宙にふわりと浮かび、そのつま先があくまで柔らかにかそけき弧を描く。

はぁ~。ロパートキナのあの長くほっそりとした手脚が虚空にゆっくりとラインを描く様をこんなにも美しく表現してくださってありがとうございます。読んでいてハッと舞台姿が眼に浮び震えがきました。

日本公演でも「ジゼル」をやってもらえないかしら・・・。
いつの日か、チャンスがあれば絶対逃さないようにしなくては・・と固く心に誓ったわたくしでした!
maria 2007/04/12(木) 03:11:05) 編集


maria様 どうもお粗末さまでした~。なんだか舞台とは直接関係のないことばかり書いてしまいましたが(汗)、少しでもあの夜の雰囲気をわかって頂けたなら幸いです。

本当に、日本でもロパートキナのジゼルを是非!あまり一般受け(?)するジゼルではないかもしれませんが、ともかく一度はご覧になって頂きたいです。
Naoko S 2007/04/12(木) 09:12:42) 編集

わ~~わわわ。Naokoさん、こんな詳細なレポートをどうもありがとうございました~!
やはり、ロパートキナはすごい。これは、ますます観たくなってしまって、困ったわ~。

『ジゼル』の2幕のやり方は、ダンサーによってはまだ人間としての部分が残っているように表現する場合もありますが、私はそれこそ"「あちら側」の世界"に行ってしまっている存在としてのジゼルのほうが好み(ちょっと不気味だったりするとなお良い)なので、きっとロパートキナのジゼルは観たら取り憑かれてしまうような気がします~。来日公演で是非実現してくれることを切に願ってやみません。早く取り憑かれたい。

ところで、スクラップ帳をご準備なさっているのですね~。さすがだ!
mizuko 2007/04/12(木) 12:03:43) 編集


mizukoさんは「不気味系のジゼル」がお好みですか(笑) ロパートキナはそういうのとはちょっと違って、えーと、うーんと・・・ああ ごめんなさい 上手く表現できませんわ(汗)。ともかく一見の価値ありです!としか申し上げられないのですが・・・。

スクラップ帳というのは誇大表現だったかも・・・たま~に気になる新聞記事があると取ってあるだけです。この野田さんの寄稿文はとっても面白くて、全文引用したかったくらいです。
Naoko S 2007/04/13(金) 06:45:42) 編集

>>mizukoさんは「不気味系のジゼル」がお好みですか(笑)

ふふふ。ほんの少しだけです。怖すぎて、ホラーになっても困ります。(笑)

>>ロパートキナはそういうのとはちょっと違って、えーと、うーんと・・・ああ ごめんなさい 上手く表現できませんわ(汗)。ともかく一見の価値ありです!としか申し上げられないのですが・・・。

わかりました。自分の目で確かめることとします。p(・-・)(誓)
mizuko 2007/04/15(日) 00:33:36) 編集

コメントを書く
#

管理者にだけ表示
06
--
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
--
>>
<<
--