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ロパートキナのすべて・ガラ公演
マリインスキーの場合、本国以外で開催される機会は滅多にないであろうと思われるダンサー個人のガラ公演。しかもロパートキナの踊るパキータとライモンダは未見で、この貴重な機会を逃すまいと一時帰国したわけですが。

以下は極私的メモでまともなレビューではありませんのでご注意を。ロパートキナに関しては客観的な鑑賞レポを書くことはほぼ不可能に近いので・・・。

マリインスキー・バレエ 「ロパートキナのすべて」
2006年11月30日 東京文化会館


☆ パキータ・グラン・パ
ウリヤーナ・ロパートキナ、ダニーラ・コルスンツェフ、エカテリーナ・オスモールキナ、ソフィア・グメーロワ、スヴェトラーナ・イワノーワ、ダリア・パヴレンコ、ヴィクトリア・テリョーシキナ

☆ ライモンダ 第3幕
ウリヤーナ・ロパートキナ、エフゲニー・イワンチェンコ、エレーナ・バジェーノワ、フョードル・ロプホーフ、ポリーナ・ラッサーディナ、イスロム・バイムラードフ、イリーナ・ゴールブ

☆ ダイヤモンド
ウリヤーナ・ロパートキナ、ダニーラ・コルスンツェフ

「見えないものを見る」*

バレエのエッセンス・・・ ロパートキナの舞台に接して度々頭に浮かぶのがこの言葉。今回はオールスター・ガラのパヴロワとチェケッティを見ながらふっと脳裏をかすめたのがやはりこれ。

実は我ながら意味不明の言葉なのだけど、初めて彼女の舞台を見た時筆舌に尽くしがたい衝撃を受け、目の前で起きていることを形容する術を持たず・・・ただただこの言葉が繰り返し浮かんできて。以来、彼女の舞台を見て同じ場面に遭遇するにつけ、一体これは何を意味しているのか?と考え続けてかれこれ10年近くたつことになる。

バレエの本質を凝縮した存在・・・その「本質」部分が問題なわけだけれど、私見では、彼女の場合それは目に見えない部分の比重がより大きい。勿論結果として舞台上に提示されるのはあくまで見える部分であって、その点も非凡なものがあるけれど(彼女のフォルムの美しさはそれ自体芸術作品と呼ぶに値するし、技巧の確かさにも定評がある)、重要なのは、結果として出てきた形の背後にあるもの・・・ 

ロパートキナというダンサーは、クラシック・バレエという芸術形式に確固たる信仰心を持っていて、かつ、絶対的な「善」の存在を信じているように見える。クラシックの規範に忠実に、それが正しく表現されれば、バレエ芸術が絶対善の存在を観客に確信させることができる・・・という信念を持っているかに見えるのだ。人間の根源的な感情や世の中に存在する抽象的な概念を、その本質部分を本能的にすくい取って、純化されたエッセンスだけを表現してみせる。見えないものを見る力を与えられたアーティスト。(それを「精神性の高さ」と呼ぶ人たちがいて、多分私が考えていることと意味は殆ど同じだと思うけれど・・・) 往々にして腕や脚ではなく彼女の顔の表情がより一層雄弁に表現したいことを語っているのはそのせいではないか。

そして、時として古典の表現を超えてこの抽象表現に没入してしまう傾向があるのだけれど、まさにこれが彼女をユニークで唯一無二の存在たらしめている資質・・・と私的には思っている。(そして多分、彼女自身はこのことに気づいていない。) さらにユニークといえば、無意識のうちに(と思うのだが)どんな作品でも自分の領域・極めて独特の静けさと神秘性を持った自分だけの世界に引き摺りこんでしまう握力の強さ・・・ミステリアスで夢見がちの、非現実的な世界が彼女の棲家。(ライモンダのヴァリエーションで両手を打つシーンが象徴的で、ロパートキナはここで全く音をたてず、かすかに両手を触れ合わせるだけ。まるで、夢から醒めたくない・醒めさせないで・・・とシグナルを送っているようだった。)

こうした彼女の特異な資質が最大限生かされるのは、決まった役柄をもつ物語作品ではなく、より抽象性の高い作品 -- たとえば音楽を視覚化するバランシン作品、白鳥の湖など(乱暴なようだけど私的にキーロフの白鳥は抽象バレエと呼んでも構わないのではないかと思っているので・・・)。今回のガラ公演でバランシンのダイヤモンドが白眉だったのも偶然ではない。実際、今回初見のパキータ、ライモンダは正直言ってそれほど強い印象が残らず、ただ、彼女は姫/女王様キャラではないんだなぁ 従って古典作品の「お姫様もの」を見る醍醐味は味わわせてもらえない(勿論十分に美しい舞台なのだけど)・・・という、今にして思えばある意味非常に合点のいく事実を発見。

音楽に感応する力に恵まれ、純粋に音楽が与えるインスピレーションに身を任せた時のロパートキナは、バレエ作品の枠を遥かに超える何か、を見せてくれる稀有のアーティスト。こういう見方をしている一ファンにとって現在彼女の置かれた状況は必ずしも嬉しいものとは言えず・・・

たとえば今回のガラに選ばれた三作品は彼女自身のセレクションだと思われるけれど、奇しくもすべて白のクラシック・チュチュで踊られる古典の王道を行くものばかり。現在の彼女が置かれたポジションとダンサーとしての限界が如実に表れた選択で、一ファンとしては彼女が背負った(背負わされた)荷の重さを思うと、うーん そろそろちょっと方向転換してほしいなあ・・・と感じざるを得ず。果たしてロパートキナというダンサーは世間(とりわけ舞踊監督・彼女のボス!)が言うように、何よりもまず、「ロシア・バレエの伝統の体現者」で「後続のロールモデルとなるべき存在」なのだろうか?(いや自分も最初はそう思っていたんですが・・・) たとえそれが一面の真実だとしても、彼女にはそれだけでない、もっと多彩な顔・ポテンシャルがあるはずと思えてならないのだけど・・・

高すぎる背と長すぎる手足。規格外なのは身体的条件にとどまらず、(上述のような)特異な個性のためレパートリーが極端に限られている。なのに周囲からはロシアバレエ(サンクト・ペテルブルグ派)の伝統を継ぐ最右翼のダンサーと目されご本人もそれを十分自覚して自分に課せられた役割を果たすことに専心しているように見える。彼女を評して「ロシアの魂」と形容するのは理解できるとして、役割が固定化されるのは避けてほしい・・・ 現状に留まらず更に地平を広げて、より大きな芸術家になってほしい・・・というのが一ファンの切なる願いです。

5年後に再びガラ公演が開催されるとしたら、そのときは一体どんな顔を見せてくれるだろう?ファンとしては、是非とも赤や青や黒(黒鳥のような象徴的な意味でなく本来の黒)の彼女も見てみたい。それによって、彼女の白いバレエもさらにまた純化されたものとなるだろう・・・という気がするのです。

(そうそう今夜彼女は東京で白鳥を踊っているのですよね・・・しかもお相手はゼレンスキー《ここが肝心》!いいなぁ 見たいなあ ロパートキナとゼレの白鳥・・・)

*注: ミッシェル・アンリの著作「見えないものを見る・カンディンスキー論」のタイトルにインスパイアされ、氏の表現(当該部分)を借用しました

2006-12-08 22:46 | マリインスキー・バレエ | Comment(2)
Comment
待ってました!
Naoko様のロパートキナ評、いや、ロパートキナ論、かしら?

ライモンダのヴァリでのあの印象的なかすかなクラッピングを、「夢から醒めたくない・醒めさせないで・・とシグナルを送っているようだった」と表現されるくだりは白眉ですね!

キーロフの厳格な役の振り分けは、他のバレエ団と比較しても際立っていますよね。抽象バレエとしての「白鳥」(これもツボな表現でした)など、ならでは、の大切にして欲しい演目もありますが、もっといい意味での冒険をしていただいても・・・と思いは同じでございます。

10日のソワレでのゼレ(彼も好調のようですね)とロパートキナの「白鳥」を間近にして、気分が盛り上がりつつあるところ、素晴らしいレポであの公演を反芻するという贅沢をありがとうございました♪
maria 2006/12/09(土) 01:23:19) 編集

maria様

反応して頂き有難うございます。なんといっても今回彼女の名前を冠したガラ公演を鑑賞する機会を得て・・・ついつい常日頃考えていた「論」をブッてしまいましたわ。

maria様も同じ思いでいらしたのですね。ファンとは贅沢なもの・・・勿論今のままの彼女でも我々にとっては特別の存在、one-and-only なわけですが、もっと別の何かがあるはずっ!or,もっともっと凄いはずっ!と期待してしまうんですよね・・・

「白鳥」maria様は最終日にご鑑賞予定ですか。いいですねぇ~ ご感想を拝読するのを楽しみにしております。(ところで私早合点してまして昨夜はロパートキナ&イワンチェンコだったのですね!イワンチェンコはコルスンツェフの代役だったようで・・・失礼致しました~)

Naoko S 2006/12/09(土) 07:03:45) 編集

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